東京高等裁判所 昭和62年(行コ)82号 判決 1991年2月04日
控訴人
宇都宮朝子
右訴訟代理人弁護士
渡辺良夫
同
山下登司夫
同
上柳敏郎
被控訴人
向島労働基準監督署長
宇田川誠一
右指定代理人
梅津和宏
外四名
主文
原判決を取消す。
被控訴人が控訴人に対して昭和四七年一〇月三一日付でした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取消す。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の主張は、当審における補足的主張を次のとおり付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する(ただし、原判決四枚目裏四行目の「発生した」の次に「という」を加え、同七枚目裏二行目の「をもって」を「で」に、同一一枚目裏一行目の「正行」から同四行目の「急死した」までを「右のような精神的緊張を伴い、かつ通常より厳しい業務の遂行が基礎疾病である冠状動脈硬化症、心肥大を増悪させ、正行に悪性の不整脈(心室細動)を生じさせ、同人を急死に至らせたもので、正行の死亡は、右基礎疾病と正行の右業務の遂行による精神的緊張とが共同原因となって生じた」に、同一四枚目裏二行目の「詳目」を「細目」にそれぞれ改める。)。
(控訴人の当審における主張)
被災者である正行の有していた基礎疾病である冠状動脈硬化症、心肥大はそれだけで死に至るような重篤な状態にあるものではなかったが、次のような要因が複合し、それが相対的に有力な原因となって、右の基礎疾病を急激に増悪させ、正行を死に至らしめたものである。
1 本件作業現場は狭溢であったため、ミキサーとベルトコンベヤーを設置することができただけで、通常の足場をくむことができず、また、セメントもミキサーのわきに置くことができないので離れた場所に置かざるを得なかったため、練り方は、その作業開始前に必要なセメント袋をその都度セメント置き場から運搬しなければならず、また、練り作業を始める度ごとに一袋四〇キログラムのセメント袋を足元に積んだブロックに上って、持ち上げるようにしてこれをミキサー内に入れざるを得なかったのであり、いずれも努責(力み)を生じる静的筋活動を強いられ、筋収縮による血管圧迫、更に息こらえによる呼吸停止とそれによる胸腔内圧の高まりが生じ、正行の有していた基礎疾病が増悪する方向へと影響を及ぼした。
2 正行の就労期間(昭和四七年六月三〇日から同年七月七日まで)の気象環境は最高気温、最低気温、平均気温がいずれも歴年と比べて異常気象ともいえるほどの高温状態で推移し、被災当日直前の七月五日、六日の夜間気象環境はいわゆる熱帯夜に近い状態にあり、正行の従事していた重労働による疲労の回復を阻害し、疲労の蓄積進行を著しいものとした。そして、このような疲労の蓄積のまま被災当日の就労に至り、高温下での本件作業の遂行は正行の体内の血液水分含有量を減少させ、いわゆる水負債の状態が生じ、血液凝縮(血液粘調度増高)を来し、血液粘調度を増した血液は血管内壁との間に摩擦抵抗を起こして血液がスムースに流れなくなり、心・血管系(循環器)の活動をより亢進させた。そして、基礎疾病として冠状動脈硬化症がある場合は多少なりとも血管が狭窄していることを意味するから、血液の血管内通過抵抗を大きくし、ますます心・血管系の活動を亢進させ、基礎疾病を増悪させる結果となった。
3 本件作業は、重量物であるセメント袋の運搬作業、セメント袋を持ち上げてミキサー内にセメントを入れる作業、砂置場の砂をスコップでベルトコンベヤーに投入する作業、練り上がったモルタルを入れたバケツ二個を運搬する作業等の重労働ないし激労働に属し、特に被災当日は時間を短縮して右作業に従事し、また、被災直前には三階屋上まで階段の昇降をするという重労働をしており、このような重労働ないし激労働は酸素消費量を増大させ、基礎疾病を増悪へ導くことになった。
(被控訴人の控訴人の当審における主張に対する反論)
控訴人の当審における主張は争う。
正行は、昭和三三年頃から左官工事におけるモルタル練り作業に従事していた熟練工であって、本件工事における就労時間は午前八時から午後五時までで、その間午前一〇時からと午後三時頃から各三〇分間及び昼一時間の休憩時間があり、就労期間中の残業もなく、本件作業の内容も機械化が進んでおり、正行の年齢、体格、経験等に照らし、右作業が通常の屋外における肉体作業と比較して格別に過重とはいえない。また、その作業環境も、通常の左官工事現場に比べてやややりにくい状況にあったとはいえ格別に劣悪であったわけではないし、就労期間の気象環境も平年に比べ多少高温の日が続いたとしても格別異常といえるほどのものともいえず、これらが正行の有していた基礎疾病を自然的経過を越えて急激に悪化せしめたと認めることは困難であり、正行は、たまたま業務遂行中に重篤な状態にあった基礎疾病の自然的増悪が限界に達して急性心臓死したものである。
(証拠関係)<省略>
理由
一控訴人の夫である正行(昭和八年一二月二〇日生)が、坂出建設株式会社が元請として施工する本件工事を同社から下請した渡辺工業に雇用され、本件工事現場において本件作業に従事していたところ、昭和四七年七月七日午前一一時五五分ころ、本件作業現場で仰向に倒れているところを通りかかった同僚の大工に発見され、直ちに加藤病院に収容されたが、既に死亡していたこと、控訴人は、正行の妻であり、同人の死亡当時その収入によって生計を維持し、かつ、同人の葬祭を行うべき者であったので、被控訴人に対して、労災保険法に基づく遺族補償年金給付及び葬祭料の支給を請求したところ、被控訴人は正行の死亡は業務上の事由によるものではないとして本件処分をなしたこと、正行が冠状動脈硬化症及び心肥大の基礎疾病を有していたことは、いずれも当事者間に争いがない。
二正行が業務遂行中に死亡したことは明らかであるが、控訴人は正行の死亡は労働基準法七九条及び八〇条の「労働者が業務上死亡したとき」に当たると主張するので、まず、その判断に必要な限度で正行の死亡に至るまでの事情につき検討する。
1 就労の経緯、状況等
<証拠>を総合すれば、正行は子供のころからの知合いで縁戚関係にもあった宇都宮千代司の紹介で昭和三三年ころからモルタル練り作業(いわゆる「練り方」)を主とする左官の仕事に従事するようになったこと、昭和四七年当時正行には定まった左官の仕事がなかったところ、左官業を主たる業務とする渡辺工業の現場監督の職にあった宇都宮千代司の紹介で同年六月末ころ渡辺工業に雇用され、本件工事の左官作業を担当することになったこと、正行は、仕事上の知合いであった今原健一及び阿部利美に渡辺工業を紹介し、本件工事の左官作業を右三名でいわゆるグループ請負の形で行うこととし、正行が練り方を他の二名がモルタルを塗る作業(いわゆる「塗り方」)を担当することになったこと、右左官作業に対する報酬の見積額は六〇万円程度でこれからセメント代一二万円を差し引いた残額を均等割りすることになっていたこと、右左官作業の工期は契約上は同年六月二五日から一ケ月となっていたが、現実には六月二七日から今原健一及び阿部利美が右作業に着手し、同日は左官用具の搬入・据付等の準備作業を行い、以降、六月二八日は休み、二九日は主に屋上階段壁の下地ラスモルタル塗りをなしたこと、正行は他の仕事の関係から同月三〇日から本件作業に従事し、同日からは前記の分担に従って三名で右左官作業を行うようになり、同日は主に一階柱形の下地ラスモルタル塗り、七月一日は主に二階柱形の下地ラスモルタル塗り、二日は休み、三日は三階柱形及び梁の下地ラスモルタル塗り、四日は主に二階壁の付送り、五日は屋上目地張り、六日は主に三階壁の付送りを行い、正行死亡当日の七日は屋上床の均しモルタル塗りを行っていたこと、この間の正行の勤務時間は午前八時から午後五時までであり、通常、午前一〇時と午後三時ころから各三〇分程度、正午から一時間の各休憩をとり、特に残業はなかったこと、七月七日に正行の死亡という事態が生じたため、本件工事現場の左官作業は翌八日及び九日と中止されたが、その後、正行の代わりに二名の左官の応援を得て、一〇日から作業が再開され、以後一六日及び二三日の休みを除き、三一日まで四名が右作業に従事し、同日、右左官作業は終了したことが認められる。
2 作業環境及び作業内容
<証拠>を総合すれば、正行の従事していた本件工事現場におけるモルタル練り作業(「練り方」)は、セメント、砂、水を配合、練り上げてモルタルを作り、これを塗り方の左官の作業場所まで運搬する作業であり、その作業を効率化するため、右作業に必要なミキサー、ベルトコンベヤーを設置した後、作業がし易いように足場を組み、セメントもミキサーのそばに置き、電気系統のスイッチや水道の蛇口もミキサーの近くに設置するのが通常であること、しかし、正行の練り方作業は本件建物(敷地面積85.8337平方メートル、建築面積50.715平方メートル)の一階玄関付近を作業現場とせざるを得なかったため、作業場としては狭溢で、足場を組むことができず、ブロック二段を積んで一応の足場代わりとし、セメントもミキサーのそばに置くことができず、三ないし一〇メートル離れた四ケ所にセメント置場を設け、作業の度に必要量をミキサーの所まで運ばざるを得なかったこと、また、電気系統のスイッチや水道の蛇口もミキサーの近くに設置することができず、総じて通常の作業現場に比較して練り方の作業を効率的に行うことができず、その作業をやりにくいものとしていたこと、正行の従事していたミキサー一回当りの主な作業は、①セメント置場から一袋四〇キログラムのセメント袋をミキサーの設置場所まで運び(一回当り必要なセメントは四袋)、ミキサーとベルトコンベヤーの電源スイッチを入力して作動させ、足場代わりのブロックに上ってセメント袋を持ち上げるようにしてセメントをミキサーに投入し、セメント四袋分に配合する砂を砂置場から角スコップで四〇ないし六〇回程度すくってベルトコンベヤーに投げ入れ、ミキサーのそばに置いてあった水の入ったドラム缶から一八リットル缶で一、二杯に相当する水をバケツで一〇回ないし二〇回程度汲んでミキサーに投入してモルタルを作成し、②次に、練り上がったモルタルを取り出して、これをスコップでバケツ二個に入れ、これをモルタル荷揚場まで運び、③右荷揚場でバケツ二個をベビーウインチのフックに掛けた上、ベビーウインチのスイッチを入れてつり上げ(その際、風が強いときは、バケツが相互にぶつかり合ったりしないよう、また、建物の外壁等にぶつからないように介錯綱で調整することもあった。)、モルタルの荷揚げ作業をするというものであり、この間の作業時間は概ね四〇分から五五分程度であったことが認められる。
3 就労期間中の気象条件
<証拠>を総合すれば、正行の就労期間を中心とする昭和四七年六月及び七月の気象庁観測による東京の気象条件の経日的変化及び昭和二六年から昭和五五年までの三〇年間の気象庁観測による東京の六月、七月、八月の最高・最低・平均の各気温の経日的変化を図示すると別紙図面のとおりとなること、これによれば、右就労期間の気象環境は最高気温、最低気温、平均気温がいずれも歴年と比べて高温で推移し、その期間の最高気温の平均が30.2度C、休日を除く実就労期間の最高気温の平均が30.5度Cとなり、いわゆる「真夏日」に当り、かつ、その間の最高・最低・平均の各気温の平均水準は右三〇年間の平年の最高・最低・平均の各気温の平均水準と比較するといずれも高温であったこと、また、正行の死亡前の二日間の最低気温は、七月五日が24.9度C、七月六日が二四度Cと暑くて寝苦しい熱帯夜と呼ばれる最低気温二五度Cに近い気温となり、夜間気温の低下幅が少なかったこと、そして正行の死亡当日である七月七日の最高気温は30.9度C、平均気温は27.3度C、最低気温は24.4度Cで、正行の死亡前の同日午前九時の気温は28.4度C、午前一一時には29.5度Cとなり、死亡直後の正午には30.1度Cとなりいわゆる真夏日の暑さになっていたことが認められる。
4 健康状態、生活態度、就労期間中の家庭での様子
<証拠>を総合すれば、正行は、死亡当時(三八歳)、身長一七一ないし一七五センチメートル(東京都監察医務院の監察医である千葉力男が死体検案をなしたときの正行の身長は一七一センチメートルであったが、死後硬直を起こしていた可能性が強く、妻である控訴人の記憶どおり一七五センチメートル程度であったものと思われる。)、体重八三キログラムで、体格的にはやや肥満であるが栄養は良好な状態にあったこと、体格的には筋肉質で頑健な印象を与え、控訴人と結婚した昭和四一年以降はぎっくり腰で一、二度接骨医に通院したことがあるだけで、他に特段の病気をすることもなく、妻である控訴人も正行に健康上の問題があるとは思っていなかったこと、また、嗜好として、煙草を一日一五本程度、酒は好きな方で、毎日主としてウイスキーで晩酌し飲酒量は一ケ月大瓶三本程度であったこと、日常生活は、午前六時ころ起床し、朝食後、午前六時三〇分から七時三〇分ころまでに出勤し、勤務が終えるとまっすぐ帰宅し、帰宅時間は午後七時ころで、すぐに夕食をとり、午後一〇時三〇分から一一時ころに就寝していたこと、本件工事現場で就労していた期間も家庭内で特に変わった様子もなかったが、控訴人に対して今度の仕事はいわゆる「受取」の仕事で七月二〇日までに仕上げなくてはならないので忙しいと話していたこと、正行については健康診断等による資料がなく、その死亡前の健康状態(血圧等)については具体的に知り得ないこと、なお、正行の父は七二歳、母は八四歳で死亡し、正行は男二人、女五人の七人兄弟姉妹の第四子で次男であったが、心臓疾患のある者や肥満者はなかったこと、ただ、正行は、中学生のころ、マラソンの練習中に脈拍が二つ位消えるような状態になると宇都宮千代司に話したことがあったが、その後、左官の仕事に就き、結婚した後に仕事仲間、控訴人等に不整脈を起こした旨を話した様子はないことが認められる。
5 死亡前日及び当日の家庭での様子
<証拠>によれば、正行は、死亡前日も午後七時ころ帰宅し、通常通り、夕食を済ませ、ウイスキーを晩酌程度に飲んだ後、午後一〇時ないし午後一一時ころ就寝し、死亡当日も、午前六時ころ起床し、朝食後、午前七時三〇分ころ出勤したが、この間特に変わった様子もなかったことが認められる。
6 死亡当日の就労状況、死亡前後の事情
前記当事者間に争いのない事実に<証拠>を総合すれば、死亡当日の七月七日、正行は、本件工事現場に到着した後、午前八時ころから本件作業(練り方作業)に取り掛かったが、現場の同僚に対しても通常通りの挨拶をなし特に変わった様子もなかったこと、当日予定されていた左官作業は前記の屋上床の均しモルタル塗り作業であり、今原健一及び阿部利美が前日に続いて屋上床面に概ね三センチメートル程度のモルタルを塗り、この塗り方の作業状況に合わせて正行が必要量のモルタルを作成する作業に従事していたこと、当日の正行の具体的な作業内容も前記2のとおりであったが、当日は午前中の休憩をとらずに作業に従事したこと、正行は、午前一一時三〇分ころ、今原健一及び阿部利美が塗り方作業をしている屋上へ階段を上って行き、塗り方作業の状況を見聞し、同人らに「午前中に屋上の土間が全部終わるな。きりのよいところにしよう。」と述べ、今原健一が「モルタルがちょっと足りない。」と言うと、これに対し「下へ行って少し練ろう。」と答えて、階段を降りていったが、この間は五分弱程度であったこと、正行が階段を上って屋上に上がってきた右の時点で正行がミキサー一回当りの本件作業を何回行っていたかは必ずしも判然としないが、右一回当りの作業時間は概ね四〇分から五五分程度であったから少なくとも三回は右作業を行い終えていたと推測されること、その後、正行は本件作業現場で練り方の作業を再開したが、昼食時間も近くなっていたので、昼食に出るために通りかかった加藤病院の医局員が「暑いね。ご苦労さん。」と声を掛けたのに対し「やー」と返事をし、また、昼食に出る大工作業員に「もう昼ですか。」等と述べていたこと、その後、午前一一時五五分ころ、通りかかった大工作業員がミキサー付近で半袖シャツ、ステテコ、地下足袋姿で仰向に倒れている正行を発見し、直ちに隣接の加藤病院に収容したが、既に死亡していたこと、当時、右死亡現場のミキサー付近にはセメント二袋が置かれていたことが認められる。
7 死亡時の所見
前記当事者間に争いのない事実に<証拠>によれば、加藤病院の医師の診察の結果、正行には外傷も認められなかったので警察に連絡したところ、死体解剖することとなり、昭和四七年七月八日、東京都監察医務院の監察医千葉力男が正行の死体を検案したが、同医師は、死亡年月日時分は昭和四七年七月七日午前一一時五五分ころと判断し、直接の死因を心肥大、その原因を冠状動脈硬化症と検案し、その剖検所見として昭和四八年九月一一日付の意見書(<証拠>)において要旨「死斑強直は強度である。体表等に特記する外傷は認められない。心重量は四七〇グラムで剔出時流血量は四〇〇ccである。屍手拳より大きく、形は円錐形である。心外膜には脂肪の沈着が著明である。溢血点、腱斑は認められない。心冠状動脈は蛇行を認められないが、粥状硬化はやや著明で軽度石灰沈着が右回旋枝に認められる。左室軽度拡張している。心筋の厚さは左室で1.8センチメートル、右室で0.3センチメートルである。組織学的には心筋はうっ血間質増生が著明である。死因は冠状動脈硬化症に起因する心肥大。」としていること、同医師は、昭和四七年八月七日付の死体検案書(<証拠>)及び解剖報告書(<証拠>)においても右剖検所見とほぼ同内容の解剖所見を簡略に記載しているが、冠状動脈硬化の程度については「冠状動脈粥状硬化強い」と簡潔に記載していることが認められる。
三冠状動脈硬化症、心肥大
本件の争点は正行の死亡が前記の「労働者が業務上死亡したとき」に当たるかどうかであるが、これが肯定されるためには正行の死亡と業務との間に相当因果関係があること、すなわち業務起因性があることが必要であると解されるところ、前記千葉力男医師の直接死因についての所見が冠状動脈硬化症に起因する心肥大とされているから、業務起因性の判断の前提として、冠状動脈硬化症、心肥大についての医学的知見について検討を加える。
<証拠>を総合すれば次の事実が認められる。
1 冠状動脈硬化症は、動脈硬化が冠状動脈に生じる疾病であるが、冠状動脈病変の大部分は粥状硬化であり、それは内膜のアテローム形成が次第に血管内腔を狭窄、閉塞し、冠血流量を制限する。加齢とともに冠状動脈硬化は進行するが、動脈硬化病変が進行すると、高度の脂質の沈着とともにコレステロール結晶が沈着しアテローマ性硬化と呼ばれる内腔の狭窄が生ずることが多く、アテローマ性硬化による内腔の狭窄が七五パーセントを超え、更にアテローム内出血など急速に内腔を狭める要因が働くと末梢心筋の虚血性病変は非可逆性となり心筋梗塞を発生する。アテローマ性硬化に加齢変化が加わると石灰化が生じ、柔らかいアテローマ(粥腫)と硬い石灰板の間に血流刺激による歪みが働くとアテローマ内出血を誘発し、急激な内出血や血栓形成の病因となる。冠状動脈硬化による血管内腔の狭窄、閉塞は、その末梢域の心筋の酸素需要を充たし得ない段階に至ると心筋梗塞を含む虚血性心疾患を生ずる。冠状動脈硬化の程度は内腔の狭窄度によって示され、二五パーセントは軽度狭窄、五〇パーセントは中等度狭窄、七五パーセントは高度狭窄とされ、心筋に虚血を発生するに足りる狭窄は五〇パーセント以上の狭窄であり、虚血が心筋の一部が壊死するほど強くなるには七五パーセント以上の狭窄が必要で、五〇パーセントから七五パーセントの狭窄度では更に動脈のスパズム(攣縮または収縮)が加わるとか、心臓の拍動の強さや頻度が増加することなどの付加条件が加わったときに心筋に壊死が発生すると言われている。
冠状動脈硬化症は、臨床的には、狭心症、心筋梗塞、心不全、不整脈、ときには突然死亡する場合がある。
2 心肥大(心臓肥大)は、生理的肥大(スポーツ家に見られる心肥大)と病的肥大があり、病的肥大は、弁膜疾患、冠状動脈硬化症、心筋の疾患などの疾患に伴って心臓が常に過重の仕事を行わなければならないために心筋が肥大して生じ、慢性の心不全症を起こすと七〇〇から九〇〇グラムにまで肥大することも稀ではなく、大体五〇〇グラムが病的心肥大の目度とされている(通常、大人の心臓は二五〇グラム程度)。成人において、心肥大は心筋自体が肥大するから、肥大した心筋は酸素の供給、栄養素の供給がかなり悪いことになる。冠状動脈硬化症に心肥大が加わると、ことに悪循環が生ずる。すなわち、冠状動脈硬化症の場合には心筋の変性が起こり、最終的には心筋の壊死を起こし、死滅した心筋の中にこの間質の増生が生ずるが、残存している心筋は欠如した心筋の機能を補うために更に肥大して心臓の収縮を補わなければならず、このため、ますます心肥大が増加し、この結果、心不全症を引き起こし、心筋の変性が起こり易くなり、ついには心臓自身がいつも拡張している状態、すなわち代償性のない心肥大が起こり、このため心臓衰弱で死に至ることが多い。
3 心臓は、心身の興奮等に対して心筋の物質代謝の亢進並びに心筋内の血液循環の増加による調節によってその機能が補償されているが、冠状動脈硬化症によってこのような調節機能に障害が生ずると、心筋の不全症が起こり、特に、急激な身体労働や精神的興奮が生ずると、その不全状態はそれだけ著明となる。
4 冠状動脈硬化症の危険因子(リスクファクター)としては、年齢(加齢化と併に高率化)、性(男性が高率)のほか、①血清脂質異常、特に高コレステロール血症、②高血圧、③喫煙、④糖尿病、⑤肥満、⑥虚血性疾患の若年発症の家族歴、⑦心電図異常、⑧食事、⑨身体運動の不足、⑩情動ストレス、⑪高尿酸血症ないし痛風などがあり、①から⑦の因子は特に重要なものとして主要な危険因子(メジャーリスクファクター)といわれている。
四正行の死因についての医学的見地からの所見
前記二7に認定した事実に前記三の医学的知見によれば、正行の直接死因を冠状動脈硬化症に起因する心肥大とした前記千葉力男医師の所見を肯認することができ、正行は右疾病により心停止を起こして突然死亡したものと認められるが、これらの疾病(基礎疾病)の程度と正行の死亡の関係についての医学的見地からの所見について検討する。
1 千葉力男医師の所見
<証拠>によれば、千葉力男医師は、正行の直接死因と剖検所見との関連性について、前記意見書において、冠状動脈硬化症は、壮年層より認められ、これは種々の程度に心臓の肥大拡張の原因となり、狭心症の発作を惹起することもあり、冠状動脈硬化があるときは乏血症の栄養障害が起こって心筋の変性を起こすため軽微な動機で心臓停止をおこすことになるとした上で、正行の場合は年齢的にみると動脈硬化症は比較的に強いものと思われ、心肥大はこの動脈硬化症によるものと思われるとし、また、正行の体重、身長から考慮しても心肥大と考えられるとしていること、そして、本件においては、労働条件も具体的なことは不明であるが、コンクリートミキサーの仕事をしていたとのことであるから、冠状動脈硬化症は軽微な興奮あるいは労働が誘因となり急死の転機が惹起され得るものと思われるとしていることが認められる。
2 高亀昂二医師の所見
<証拠>によれば、高亀昂二医師は、千葉力男医師の前記死体検案書に冠状動脈硬化の程度につき「冠状動脈粥状硬化強い」と記載してあることから、狭窄の程度を七五パーセントと理解した上で、正行は心筋梗塞をいつ起こしても不思議はない状態であったとしていることが認められる。
3 石山昱夫医師の所見
<証拠>によれば、石山昱夫医師は、本件においては、千葉力男医師作成の前記意見書、死体検案書の判定を前提に考察せざるを得ないが、充分な組織学的検査が行われたか否か問題であり、生前の高血圧症のような基礎疾病があったか否か、動脈硬化症の進行状態、心筋変性の有無、粥状硬化症の部位における著しい痙攣や浮腫の病理所見等の基礎的データを検討した上でないと明白な意見は出しにくいとしつつ、正行の死亡につき、①通常の心肥大があったところ、過度の労働が加わって心臓への負荷が急に上昇し、そのため心臓の乏血症が増悪して心臓の急性停止が起こったという因果関係とともに、②心肥大が血管発育を伴わない悪性の肥大症であったところ、これとともに自然に起こった電解質の均衡の乱れや低血糖症といった外因によって急性心臓停止が起こったという自然発生的な死の可能性も否定できず、前記のような基礎データの検討、正行の死亡前の労働状況等が明らかでないと正行の死亡がどのようにして生じたかを判断することはできないとしていること、また、本件において粥状硬化症が心臓の唯一の所見であるとするならば、この硬化症は心臓の病変を引き起こす主因となっていたものであるから、軽度というよりは中等度と表現する程度のものであったと考えるのが妥当であろうとしていることが認められる。
4 岡田了三医師の所見
<証拠>によれば、岡田了三医師は、千葉力男医師作成の前記意見書、死体検案書の記載を前提にして、正行には強い肥満があり、これは心臓病変の原因となり、冠状動脈硬化による内腔狭窄度を三〇歳代の男性で非肥満者の五〇パーセント、四〇歳代の男性で一〇〇パーセント強める結果を招くリスクファクター(危険因子)として働いていると理解できるとし、千葉力男医師作成の前記意見書、死体検案書の冠状動脈硬化症の程度に関する記載からすると、正行の内腔狭窄度は五〇パーセントから七五パーセント程度の狭窄とみるのが妥当であり、また、四七〇グラムという心肥大は相当の肥大があると認めてよいが、岡田了三医師の剖検例によれば、問題は動脈硬化や肥大の程度にあり、急死例では冠状動脈の狭窄が非常に強いか、相対的に冠状動脈の入口が狭いかのどちらかであり(冠状動脈入口については前記死体検案書等には記載がない。)、正行の冠状動脈硬化の程度のみで急死の原因というには軽すぎるし、また、四七〇グラムという心臓重量も病的心肥大の目度とされる五〇〇グラムより低く、急死の原因というには弱すぎ、心臓の仕事が激しいと心筋の酸素必要量が増加して、軽い冠状動脈狭窄でも心筋の酸素不足を生じさせる可能性があるから、正行の死亡直前の労働量を正しく評価する必要があるとしていること、そして、正行の死亡当日午前中の労働量が日頃より多めである上に午前一一時三〇分ころから一五分位の間に日頃無症状で隠れていた冠状動脈硬化が心筋に酸素不足を生じるに足りるだけの強い労働が上乗せされて急死を来す心臓発作を生起したと結論付けていることが認められる。
五業務起因性
1 基礎疾病が存在する場合の業務起因性の判断基準
前認定のとおり、正行は冠状動脈硬化症に起因する心肥大という基礎疾病を有しており、その増悪によって心停止を起こして死亡したわけであるが、このように労働者があらかじめ有していた基礎疾病などの内因が原因となって死亡した場合であっても、当該業務の遂行が当該労働者にとって精神的、肉体的に過重負荷となり、右基礎疾病をその自然的経過を超えて増悪させてその死亡時期を早める等、それが基礎疾病と共働原因となって死の結果を招いたと認められる場合には、特段の事情がない限り、右死亡は業務上の死亡であると解するのが相当である。
2 正行の死亡と業務起因性
そこで、次に、本件における正行の死亡に業務起因性があるかについて、前記二、三認定の事実関係を基礎とし、これに前記四の医学的見地からの所見をしんしゃくして、正行の有していた基礎疾病の程度、右基礎疾病の増悪と正行の労働内容、作業環境、気象条件等との関係を考察する。
(一) 基礎疾病の程度
正行の死因についての医学的見地からの各所見は前記四のとおりであり、いずれも直接死因を冠状動脈硬化症に起因する心肥大とする所見を一応前提にして右基礎疾病と正行の死亡の関係について医学的見地から考察しているわけであるが、いずれの所見も、冠状動脈硬化の程度いかんによって、正行の基礎疾病の増悪による死亡という結果を、①基礎疾病の自然的経過によるものであったと見るか、②死亡当時、基礎疾病だけでは右のような結果は生じないような状態であったのに、これに過度の労働等のストレスが加わって基礎疾病を増悪させて心臓の急性停止が起こったと見るかという相違が生ずることを認めており、石山昱夫医師の所見はこれを詳細に医学的見地から説明するものであり、結論的には、千葉力男医師の所見だけから正行の死亡が右のいずれの因果関係を辿って生じたものかを判断することは困難であるとしている。そして、千葉力男医師は、正行の場合は年齢的にみると動脈硬化症は比較的に強いものと思われるとした上で、正行の冠状動脈硬化症は軽微な興奮あるいは労働が誘引となり急死の転機が惹起され得るものと思われるとして、正行がいずれの経過を辿って死亡したのかについての判断自体は留保しているように思われる。これに対し、高亀昂二医師は、千葉力男医師の前記死体検案書中の「冠状動脈粥状硬化強い」との記載からその狭窄の程度を七五パーセントと理解した上で正行は心筋梗塞をいつ起こしても不思議はない状態であったとしており、必ずしも明確ではないが、正行の死亡は基礎疾病の自然的経過によるものであったと見るのが自然であるとの趣旨の所見のようであり、他方、岡田了三医師は、前記のように種々の検討をなした上で、千葉力男医師の前記意見書、死体検案書の冠状動脈硬化症の程度に関する記載からすると、正行の内腔狭窄度は五〇パーセントから七五パーセント程度の狭窄とみるのが妥当であり、また、正行の心臓重量も急死の原因というには弱すぎるとした上で、正行の死亡直前の労働が過重であったために急死を来す心臓発作を生起したとして本件においては右②の因果関係を肯定している。右の高亀昂二医師の所見と岡田了三医師の所見は相反しているが、その違いは千葉力男医師の前記意見書、死体検案書の冠状動脈硬化症の程度に関する記載から正行の内腔狭窄度を七五パーセント以上の狭窄とみるか、五〇パーセントから七五パーセント程度の狭窄とみるかに係っているように思われる。この点、千葉力男医師は、前記死体検案書及び解剖報告書に冠状動脈硬化の程度について「冠状動脈粥状硬化強い」と記載し、前記意見書において「粥状硬はやや著明」、「年齢的にみると動脈硬化症は比較的に強いと思われる」と記載しており、本件においてはこれらの記載以外に正行の死亡当時の冠状動脈硬化の程度を推測するに足る資料はないが、千葉力男医師の所見として重きを置くべきであるのは、その記載形式、文書の性格からして前記意見書であると思われ、その記載は要するに三八歳という年齢にしては冠状動脈硬化症の程度が比較的に強いとの趣旨に過ぎず、前記のとおり冠状動脈硬化の程度(内腔の狭窄度)が七五パーセント以上の高度狭窄になると虚血が心筋の一部が壊死するほど強くなるわけであるから、仮に七五パーセント以上の狭窄が正行に認められていたのであれば、右の程度の記載より強い記載になったのではないかと思われ、また、基礎疾病と正行の死亡の関係について、千葉力男医師は、正行が前記①、②のいずれの経過を辿って死亡したのかについての判断自体は留保しているように思われることなどからすると、正行に七五パーセント以上の狭窄があったとまでは認め難く、岡田了三医師の所見にしたがって五〇パーセントから七五パーセントの狭窄度であったと認めるのを相当とする。
(二) 正行の基礎疾病と労働状況、気象条件等の影響
前記三のとおり、五〇パーセントから七五パーセントの狭窄度では更に動脈のスパズマ(攣縮または収縮)が加わるとか、心臓の拍動の強さや頻度が増加することなどの付加条件が加わったときに心筋に壊死が発生すると言われているから、次に、正行の死亡前の労働内容、作業環境、気象条件等が正行の基礎疾病にどのような影響を与えたかについて前記二認定の事実関係を基にして検討を加える。
(1) 就労期間中の労働状況等の影響
正行の就労の経緯、死亡当日を含む就労期間中の作業環境・作業内容、家庭での様子等は前認定のとおりであり、本件左官作業がいわゆるグループ請負的な「受取」の仕事であり、また、工期の関係もあって、全体として若干作業を急いでいたものと推認されるが、この間、特に残業をしたり、休日に就労したりしたような事実は認められず、就労状況に特段の過重があったとまでは認め難い。しかし、本件作業現場は狭溢であったため、通常の足場をくむことができず、ブロック二段を積んで足場代わりとし、セメントもミキサーのわきに置くことができないので離れた場所に置かざるを得ず、そのため、正行は、その作業開始前に必要なセメント袋を三メートルから一〇メートル程運搬する作業を行わなければならず、また、練り作業を始める度ごとに、セメント袋を、足元に積んだブロックに上って、持ち上げるようにしてこれをミキサー内に入れざるを得なかったのであって、<証拠>によれば、四〇キログラムのセメント袋を三メートルから一〇メートル程運搬する重量物運搬作業は相対的に通常以上の肉体的な労力消費を伴ったこと、セメント袋を足元に積んだブロックに上って、持ち上げるようにしてこれをミキサー内に入れる作業は体のより広い範囲での静的筋活動の動員を要求し、通常なら避けられたはずの無用の過重筋負担が要求されたこと、いずれも多かれ少なかれ息を止め、努責(力み)を伴う筋活動として行われ、そのため心拡張の抑制への多少の影響を持つこともあり得ることが認められる。
次に、本件作業の内容は前記二2認定のとおりであるが、<証拠>によれば、正行の従事した労働には、スコップによる砂すくいやベルトコンベヤーへの投入作業、バケツ二個をもってモルタルを運搬する作業等の重労働が多く、このような重労働は、人体のエネルギー消費量の大小で、体格差を消去するために指数化したいわゆるエネルギー代謝率(RMR)の上からは、作業中呼吸循環機能が、身体の酸素需要に対しその供給が時間的に均衡を保持して行われる通常の軽ないし中等程度の労働とは明らかに区別され、呼吸循環機能の定常状態の破綻による身体の酸素負債を大きくし、それはその作業のために働く筋(心筋を含む)の活動増高のために増大した酸素の需要に対し、呼吸と血液循環によるその供給が時間的に間に合わず、当該作業直後もしくは作業中間の小休止により、酸素負債償還のため、なお引き続いて呼吸循環機能の促進を進めなければならないことを意味するものとして冠状動脈硬化を持つ労働者が重労働を行った場合、酸素の需要と供給の上での時間的ズレを多少とも、より長くする関係になるということが予想されるので、軽視できない要因であるとされていることが認められる。そして、前記二6に認定した正行の死亡前後の事情からすると、正行は、三階屋上まで階段の昇降をした後、屋上の塗り作業に必要なモルタルを練り、昼食前に右作業を終えるつもりで作業に着手したが、そのころには大工作業員等は昼食に出始めており、心理的にも右作業を急いで行っていたものと推測され、また、正行が心停止を起こして倒れる直前に具体的にどのような行為をなしていたのかを認定するに足る確たる証拠はないが、作業を再開し、その後現場に倒れるまでの間になんらかの作業をなしていたことは明らかであり、右死亡現場のミキサー付近にはセメント二袋が置かれていたことからすると正行はセメント置場からセメント二袋を運搬した後に心停止を起こして倒れたものと推認するのが自然である。
(2) 就労期間中の気象条件の影響
正行の就労期間中の気象条件は前記二3認定のとおりであり、正行の就労期間中の気象環境は最高気温、最低気温、平均気温がいずれも平年と比べて高温で推移し、盛夏気候といってもよい環境にあったわけであるが、<証拠>によれば、正行の死亡当日直前の七月五日、六日の夜間気象環境はいわゆる熱帯夜に近い状態にあり、正行の疲労の回復を阻害し、疲労の蓄積進行を著しいものとした可能性が高いこと、高温下での本件作業の遂行は正行の体内の血液水分含有量を減少させ、いわゆる水負債の状態が生じ、血液濃縮(血液粘調度増高)を来し、血液粘調度を増した血液は血管内壁との間に摩擦抵抗を起こして血液がスムースに流れなくなり、心・血管系(循環器)の活動をより亢進させ、基礎疾病として冠状動脈硬化症がある場合は多少なりとも血管が狭窄していることを意味するから、血液の血管内通過抵抗を大きくし、ますます心・血管系の活動を亢進させるという問題を含んでいることが認められる。
(3) なお、前認定のとおり正行には肥満、喫煙があったが、<証拠>によれば、肥満の点は、通常、実際の体重から標準体重を差し引いた数値を標準体重で除して算出された肥満度を算出し、プラス一〇ないし一九パーセントが肥満傾向、プラス二〇パーセント以上が肥満、プラス五〇パーセント以上が高度肥満と区別されており、正行の身長を一七五センチメートルとすると右区分の「肥満」をやや越える程度の肥満、一七一センチメートルに近くなると三〇パーセントを越える程度の肥満となるが、いずれにしても右区分の高度肥満にはなおかなりのへだたりがあること、また、冠状動脈硬化症の発症率は喫煙量が増すにしたがって次第に高くなるが、正行の喫煙量程度では発症率が問題とするに足りる程高くなるわけではないことが認められ、いずれの因子も正行の基礎疾病を増悪させた危険因子として特に問題とするに足りる程度のものとは言い難い。
また、前認定のとおり、正行は、中学生のころ、マラソンの練習中に脈拍が二つ位消えるような状態になると宇都宮千代司に話したことがあったが、正行の子供のころの不整脈が生来的な心臓疾患によるものであったとすると、成人後も練り方の作業遂行中等に不整脈を起こしていたと考えられるが、そのような形跡はなく、<証拠>によれば、不整脈は一過性の特に問題としなくてもよいものが多いことが認められ、これらの事情からすれば、正行の不整脈も先天性の器質的な心疾患によるものではなかったものと認められる。
(三) 業務起因性の存否についての当裁判所の判断
これまでに検討してきたところからすると、正行は、あらかじめ冠状動脈硬化症に起因する心肥大という基礎疾病を有していたが、右冠状動脈硬化症、心肥大の程度は必ずしもそれだけで正行を死に至らせるほど重篤なものではなかったところ、作業環境の特殊性から本件作業形態自体が正行にとって過重なものとなり、本件作業のうちには重労働に属するものも多く、このような労働の反復により疲労(精神的・肉体的負荷)が徐々に蓄積され、これに就労期間中の高温気象が加わり、右疲労が睡眠によって癒されずに累積的に蓄積し、死亡当日までに正行の基礎疾病は増悪し易い状態になっており、こうした中で、死亡当日、真夏日に近い高温気象の下で前記のような肉体的負荷を伴う作業を午前中に仕上げるために通常より急いで行ったため、右基礎疾病がその自然的経過を超えて増悪し、正行はこれによって心停止を起こして死亡したものと推認するのが相当である。
そうだとすれば、経験則上、正行の死亡は、基礎疾病である冠状動脈硬化症、心肥大が本件作業に伴う前記のような負荷によって自然的経過を超えて増悪し、基礎疾病と右業務が共働原因となって発生したものというべきであるから、正行の死亡については業務起因性を肯定するのが相当である。
六結論
以上の次第であるから、正行の死亡を業務上の死亡と認めなかった本件処分は違法というべきであるから、その取消を求める控訴人の本訴請求は理由がある。
よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は不当であるから、これを取消し、控訴人の右請求を認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官枇杷田泰助 裁判官塩谷雄 裁判官原敏雄)
別紙<省略>